昭和天皇が1975年(昭和50年)を最後に靖国神社への参拝(親拝)を行わなくなった背景について、長年「政教分離や公式参拝をめぐる政治的議論への配慮」など様々な解釈がなされていました。
しかし、2006年以降に相次いで公表された『富田メモ』**および**『卜部(うらべ)日記』**によって、**「靖国神社へのA級戦犯合祀に対する昭和天皇の強い不快感」が参拝取りやめの直接的な理由であったことが裏付けられ、論争に決定的な影響を与えました。
両文書の具体的記述と、それらがもたらした歴史的波紋について詳述します。
## 1. 『富田メモ』の内容
**富田朝彦(とみた ともひこ)元宮内庁長官**の手帳に記されていたメモで、2006年に日本経済新聞によって報道されました。
昭和天皇崩御の前年にあたる**1988年(昭和63年)7月20日**、昭和天皇が富田長官に対して語られた発言が克明に記録されています。
### 記された昭和天皇のお言葉(抜粋)
> 「私は、或る時に、A級が合祀され、その上、松岡、白鳥までもが。
> 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが、松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と
> 松平は平和に強い考えがあったと思うのに 親の心子知らずと思っている
> **だから 私 あれ以来参拝していない それが私の心だ**」
#### 【文中の人物解説】
* **松岡(洋右)・白鳥(敏幸):** 日独伊三国同盟を推進し、敗戦後にA級戦犯として指定・被告となった人物。
* **筑波(藤麿):** 前靖国神社宮司。慎重姿勢を崩さず、在任中はA級戦犯の合祀を行わなかった。
* **松平の子(松平永芳):** 合祀を断行した当時の靖国神社宮司(松平慶永の孫)。
* **松平(永芳の父・康昌):** 元昭和天皇の側近(諸井・木戸に連なる宮中関係者)。「平和に強い考えがあった」と評されている。
昭和天皇は、三国同盟などを推し進めた人物らの合祀や、宮司の断行に対して「親の心子知らず」と強い不満を口にされ、「だから私、あれ以来参拝していない」と理由を明確に提示されています。
## 2. 『卜部亮吾侍従日記』の内容
富田メモの裏付けとして注目されたのが、昭和天皇に長年仕えた**卜部亮吾(うらべ りょうご)元侍従**の日記です(2007年公表)。
卜部氏の日記には、昭和天皇の意向や宮中内部の受け止めが具体的に記されていました。
### 主な記述(抜粋)
* **2001年7月31日の記述:**
> 「靖国神社の御参拝をお取り止めになった経緯 直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず」
* **2001年8月15日の記述:**
> 「靖国合祀以来天皇陛下参拝取止めの記事 合祀を受け入れた松平(永芳宮司)は大馬鹿」
これにより、昭和天皇側近らの間でも「参拝取りやめの理由はA級戦犯の合祀(1978年)にある」という共通認識があったことが裏付けられました。
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