重要部分
【歴史的なオスロ合意】
1993年、アメリカとノルウェーの仲介で、イスラエル・パレスチナ双方のトップにより交わされたのが、パレスチナ暫定自治合意、いわゆるオスロ合意です。
左からイスラエル・ラビン首相 アメリカ・クリントン大統領、パレスチナ・アラファト議長
パレスチナに暫定自治区を設置して、いずれはイスラエル、パレスチナの双方が共存することを目指しましょうという内容です。
和平交渉の期限とされていた2000年までは楽観論が広がっていました。双方の人たちの多くが、共存できる夢のような時代がくるのではないかと思っていたのです。
【崩れた和平への希望】
ところが、2000年9月、当時右派の政治家でのちに首相になるシャロン氏が、エルサレムのイスラム教の聖地に足を踏み入れてしまいます。
エルサレムの旧市街には「嘆きの壁」というユダヤ教の聖地がありますが、その上側に「岩のドーム」というイスラム教の聖地があります。同じ構造物の壁と天井が、ユダヤ教の聖地とイスラム教の聖地としてくっついているのです。
シャロン氏は大勢の警察官に守られながら「嘆きの壁」の上側にある階段を上り「岩のドーム」を一回りして帰ってきました。「私は平和の使者だ」と言って。礼拝中だったイスラム教徒は、それを見て暴徒化しました。そして今度はイスラエルの警察がそれを力ずくで鎮圧し、死傷者が出たのです。これをきっかけに、各地で激しい衝突が始まってしまいます。約7年もの歳月をかけて築き上げてきた和平への希望が、わずか数日で崩れていきました。これを導火線に、暴力の応酬が始まりました。イスラエルの街中では、バスが吹き飛ばされるような爆弾テロが起きるようになりました。これに対してイスラエルは、パレスチナの過激派の拠点を空爆します。
衝突が長期化していく中、イスラエルの世論が右傾化し、選挙であのシャロン氏が首相になります。シャロン氏は、ヨルダン川西岸の境界に食い込むように分離壁をつくりました。テロリストがイスラエル側に入ってこないようにするためのものです。高さは、最も高いところで8メートル、全長は700キロ以上にもなります。
この壁ができて、テロが減ったことをきっかけに、危害がないなら交渉はもういいじゃないか、という考え方がイスラエル側で広がっていきます。持続的な国を作るためには和平しか手段がない、という考え方が次第に失われていったのです。
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