「稲作伝来は長江流域から」は誤り? 弥生時代の遺跡に朝鮮の土器発見


▼ページ最下部
001 2026/06/12(金) 13:07:05 ID:8hXlFR3VNk
 兵庫県豊岡市駄坂にある弥生時代の「駄坂川原遺跡」の出土品に、朝鮮半島にルーツを持つ土器が含まれているのを、神戸女子大の斎藤瑞穂准教授(考古学)らの研究チームが発見した。


 駄坂川原遺跡は六方川の河川内や周辺の農地に広がり、弥生時代を専門とする斎藤准教授らの調査で昨年、弥生時代前期~中期前半の米や稲もみが見つかった。

 この調査に関連し、豊岡市が所蔵する過去の出土品を分類していたところ、朝鮮半島にルーツを持つ「円形粘土帯土器」の破片2点が含まれているのが分かった。
土器の口部分にかぶせた粘土ひもが丸みを残すタイプで、韓国の研究者とともに朝鮮半島系の土器と判断した。

 円形粘土帯土器は、弥生時代前期末~中期初頭(紀元前4世紀)の弥生土器とともに出土し、朝鮮半島との交流を裏付ける資料とされる。
日本海側では島根県や新潟県などで見つかっているが、近畿地方北部で初めて確認した。

 斎藤准教授は「但馬地域に誰がコメ作りを伝えたかを考える上で重要な発見になる」としている。

https://www.yomiuri.co.jp/local/kansai/news/20260611-GYO...

返信する

002 2026/06/12(金) 13:11:10 ID:8hXlFR3VNk
ネトウヨ涙目か

返信する

003 2026/06/12(金) 13:27:19 ID:hx56mBwNts
また始まったか
ただいま現在がさっぱり冴えないから、「今人気を誇っている日本米のルーツはわーくにニダ!」

返信する

004 2026/06/12(金) 13:45:25 ID:rfm/7E7SC6
渡来人が稲作を伝えたのは当たり前。この遺跡より7〜800年前には稲作は伝搬している。但馬地方は日本海航路の要衝にして、朝鮮半島との交流は縄文時代からあったが、稲作は伝来済みのこの遺跡なるが故に、朝鮮土器と稲作伝来とをこの地で結びつける理由はない。
稲作自体は北九州から列島内部伝搬し、朝鮮半島と但馬との交流、交易はそれとは無関係に連綿と継続してきたに過ぎない。

返信する

005 2026/06/12(金) 14:27:46 ID:4AOb9/zj0c
米作文化の始まりと発展の経緯についてGeminiに聞いてみた
日本における稲作文化の始まりと発展の全史
1. 【前史:縄文時代】南方からの「陸稲」の先行伝来
 ルート:中国華南・台湾から、黒潮(海流)に乗って沖縄などの琉球諸島を経由し、南九州へ至る「南方ルート(海上の道)」。
 コメの性質:野生種に近く、水田を必要としない畑作向けの「熱帯ジャポニカ」。
 実態:当時の縄文人は豊かな自然の恵み(木の実や魚介類)で暮らしていたため、コメは主食ではなく、主食を補う「補助的な作物」として細々と栽培されていました。
2. 【始まり:弥生時代早期】2つのルートの合流と水田の誕生
 紀元前10世紀頃(約3000年前)、本格的な水田稲作が始まります。このとき、性質の異なるイネと文化が北部九州へと集まりました。
 ① 中国(江南)からの直接ルート(品種の流入)
  長江流域から東シナ海をダイレクトに渡ったルートです。
  温帯ジャポニカの「b型」という、現代の日本米の直接の祖先となる品種が日本へ直接もたらされました(当時の朝鮮半島には存在しない品種です)。
 ② 朝鮮半島経由ルート(ヒトと道具の流入)
  中国華北や山東半島から黄海を渡り、朝鮮半島中・南部を経て北部九州へ至るルートです。
  寒冷地を通過する中で寒さに強く進化した温帯ジャポニカの「a型」が届きました。
  特徴:お墓(支石墓)や土器、石の道具(磨製石斧)といった生活文化や原始的な稲作の枠組みを持った渡来人が、このルートで日本へやってきました。
3. 【発展:弥生時代前期〜中期】「ハイテク水田システム」の完成
  北部九州に集まった「江南の品種」と「半島の道具・文化」が融合し、日本独自の爆発的なイネの進化と技術革新が起きました。
  最強の「弥生米」の誕生:日本の四季や気候に適応する過程で、独自の突然変異を起こした日本固有の遺伝子型(RM1-b)へと収束・固定化されました。
  高度な水田パッケージ:水路をコントロールし、畦(あぜ)で区切る高度な「灌漑(かんがい)水田」や、緻密な「木製農具」の加工技術が日本国内でセットとして完成しました(佐賀県・菜畑遺跡や福岡県・板付遺跡など)。
4. 【交流と逆流】朝鮮半島南部への逆輸入
  北部九州と朝鮮半島南部は、当時から頻繁に人が行き来する「一つの巨大な交流圏(海上の道)」でした。
  水稲技術の逆流:日本(九州)でブラッシュアップされた「高度な水田システム」や「日本固有の品種(RM1-b)」が、交易を通じて朝鮮半島南部へと逆輸入されました。
  これにより、それまで陸稲や雨水頼みの不安定な農耕が中心だった朝鮮半島南部の稲作が、劇的にアップデートされることになりました。
総括
 日本の稲作文化は、「どこか一つの地域から一方的に伝わった」という単純なものではありません。
 南方からの陸稲、中国からの品種、朝鮮半島からの文化・道具が日本列島で一つに混ざり合い、
 そこで完成した高度なハイテク水田システムが、再び大陸(半島)へと逆流していったという、ダイナミックで双方向の技術交流によって築き上げられたのです。

返信する

006 2026/06/12(金) 14:50:08 ID:cVXtSKxVyg
漢字が普及するはるか以前から朝鮮半島の言葉を理解してる人が日本に居たのは歴史的事実だからね

返信する

007 2026/06/12(金) 21:16:40 ID:6y4w89FUx2
縄文時代から稲作をやってたけどな。

返信する

008 2026/06/13(土) 06:36:48 ID:EiZjr3yC7.
日本はもう米文化を捨てるからどうでもいい

返信する

009 2026/06/13(土) 07:14:08 ID:qKA1fajGFA
>>6
日本語は朝鮮半島の言語由来ですよ。
>>7
稲作が時代区分の基準なので、その場合縄文時代に稲作があったのではなく、弥生時代が前倒しされるのです。稲以外の作物では時代区分にはなりません。時代区分=土器の形態区分ではないことに注意しましょう。

返信する

010 2026/06/13(土) 09:53:59 ID:cYD4vfeYh.
現代の言語学や遺伝学の研究において、弥生時代に朝鮮半島から日本列島へ移住してきた人々がもたらした言語こそが「日琉語族(現代の日本語や琉球諸語の共通の祖先)」であると考えられています。
弥生移住と「日琉祖語」の成立言語学では、すべての日本語や琉球語(沖縄の言葉など)の共通の祖先となる単一の言語を「日琉祖語(にちりゅうそご)」と呼びます。
年代の一致:
 統計言語学などの研究により、日琉祖語が複数の言語(方言)に分かれ始めた時期は、約2,000〜2,200年前(弥生時代中期)であることが分かっています。
移住による伝播:
 稲作技術や金属器を持った移住者(弥生人)が朝鮮半島から九州北部へ渡り、そこから東へ移動しながら日本列島全体にこの言語を広げていきました。

日琉語族と挑戦語族の動きをシンプルにまとめると、以下のようになります。
時代           朝鮮半島の状況               日本列島の状況
紀元前(初期)       日琉語族の祖先が居住(稲作を行う)      縄文人が居住(縄文語)
弥生時代〜古墳時代    北方から朝鮮語族の祖先が南下・流入     半島から逃げた日琉語族が移住(弥生時代)
7世紀以降(新羅統一)   朝鮮語族が完全定着(日琉語が消滅)      日琉語族が列島全域に拡大(日本語の確立)
つまり、朝鮮半島は「朝鮮語族の生まれ故郷」ではなく、「日琉語族から朝鮮語族へと、住人と言語がダイレクトに入れ替わった舞台」というのが現代の歴史科学の視点です。

返信する

011 2026/06/13(土) 10:07:57 ID:cYD4vfeYh.
縄文時代に存在したとされる「熱帯ジャポニカ(陸稲)」の段階と、弥生時代の幕開けとなる「温帯ジャポニカ(水稲)」の確立は、言語学的な集団の移動(日琉語族の渡来)と完全に連動しています。
この点を踏まえた時代区分の基準について、以下の3つのポイントに整理できます。
1. 縄文時代の「熱帯ジャポニカ(陸稲)」の位置づけ
 生業への影響が限定的
  縄文時代の地層から見つかる稲のプラントオパールは、畑で育てる陸稲(熱帯ジャポニカ)や湿地での粗放な栽培であったと考えられています。これはアワ・キビなどの雑穀栽培や、従来の狩猟採集(ドングリ等の採集)を補う「数あるバリエーションの一つ」に過ぎませんでした。
 社会構造を変えなかった
  陸稲は大規模な灌漑施設や共同労働を必要としないため、社会を階層化させたり、富の蓄積による権力・国家を生み出す原動力にはなり得ませんでした。そのため、米の存在自体はあっても「縄文時代」の枠組みを出ません。
2. 日琉語族がもたらした「温帯ジャポニカ(水稲)」
 言語と技術のセットでの渡来
  言語学の研究において、現在の日本語や琉球語の祖先である「プロト日琉語(原日琉語)」を話す集団が、温帯ジャポニカ種を用いた本格的な水田稲作技術を携えて朝鮮半島や中国大陸から九州北部へと渡来したと考えられています。
 爆発的な拡散力
  彼らがもたらした水稲耕作は、それまでの陸稲や雑穀栽培とは比較にならないほど高い生産性を持ち、灌漑土木技術、水利権を巡る社会組織、そして「言語(日琉語)」とともに、急速に日本列島を東漸(東へ拡散)していきました。
3. なぜ「日琉語族の水稲」が時代区分の基準になるのか
 列島規模の「均質化」と「社会変革」
  縄文時代の熱帯ジャポニカ(陸稲)は地域的・限定的なものでしたが、日琉語族が確立した温帯ジャポニカ(水稲)は、日本列島の大半の住人の言語、文化、社会構造をガラリと塗り替える(均質化させる)決定的な契機となりました。
 「弥生時代」の真の定義
  したがって、単に「イネという植物があったか否か」ではなく、「日琉語族の移動に伴う、温帯ジャポニカの水田稲作システムが社会の基盤として確立した段階」を弥生時代の開始と定義するのが、現代の考古学・言語学・遺伝学を包括した最も合理的な基準となります。
このように、言語の拡散(日琉語族)と作物の品種(温帯ジャポニカ)、そして社会システム(水稲)を三位一体として捉えることで、「なぜ縄文の陸稲では時代区分にならず、弥生の水稲が基準になるのか」という疑問に対して極めて明快な答えが出ます。

返信する

012 2026/06/13(土) 10:15:20 ID:qKA1fajGFA
AIから引っ張って垂れ流す面白くもおかしくもない書き込みがなぜダメか?

粗削りでも構わない言いたいことがないからである。言いたいことこそが間違っていてすら重要なのだし、耳を傾けるに値する。

返信する

013 2026/06/13(土) 10:20:01 ID:cYD4vfeYh.
「水稲耕作の開始をもって弥生時代とする」という生業(社会構造)を基準にするならば、縄文時代晩期の地層から水稲が見つかった時点で、そこは「縄文時代」ではなく「弥生時代の始まり(前倒し)」と呼ぶべきです。
この矛盾がなぜ未だに存在し、混乱を招いているのか、その理由は日本の考古学が抱える「歴史的な大人の事情(基準のズレ)」にあります。
1. 「土器の名前」と「社会の名前」のズレ
 日本の時代区分は、もともと「出土する土器の形」で決められました。
  土器の基準:縄文土器を使っているから「縄文時代」
  生業の基準:水稲耕作をしているから「弥生時代」
 現在、菜畑遺跡などで見つかっている最古の水田層からは、縄文土器の系統(突帯文土器)が出土します。
 そのため、「土器」を基準にする古いルールに引っ張られた結果、教科書や一部の研究では「縄文時代の終わり頃に、すでに水稲(弥生の要素)が始まっていた」という、おかしな矛盾表現が残ってしまっているのです。
2. 学界の結論:現在は「弥生時代の前倒し」へシフトしている
 この矛盾を解消するため、現在の考古学界の主流(国立歴史民俗博物館など)は、「弥生時代を前倒しする」という方向で一致しています。
  従来の定説:紀元前5世紀頃(縄文から弥生へ)
  現在の有力説:紀元前10世紀頃(約500年前倒し)
 つまり、「縄文時代晩期に水稲があった」とするのではなく、「水稲が始まった紀元前10世紀こそが、すでに弥生時代の始まり(早期)である」と定義し直すことで、論理的な矛盾を解消しました。
3. なぜ今も「縄文晩期の水稲」と言われてしまうのか?
 学界で決着がつきつつあるにもかかわらず、なぜ世間や教育現場で混乱が続くのかには理由があります。
  過渡期(早期)の扱い:水稲は始まったものの、まだ九州北部など一部の地域限定で、日本列島全体がコメ社会になっていなかったため、「これを弥生と呼んでいいのか」とためらう慎重派がいること。
  教科書の書き換えの遅れ:長年親しまれた「縄文=狩猟、弥生=稲作」という図式がシンプルすぎて、教育現場や一般向けの解説で今も古い表現が使われがちなこと。
結論
 現在の最新の歴史学でも「縄文時代晩期に水稲があったのではない。そこからが弥生時代の始まり(前倒し)である」という解釈で統一されつつあります。
 この「弥生時代の始まりが500年も古くなった(紀元前10世紀になった)」という最新の年代測定(AMS炭素14年代測定法)を巡っては、当時大きな大論争が起きました。

返信する

014 2026/06/13(土) 10:29:24 ID:a4iMiDYE1Y
稲作伝来とは? 3行でわかる稲作伝来

・稲作のルーツは中国・長江流域。約1万年以上前から始まったとされています
・日本へは縄文時代晩期〜弥生時代初期(紀元前10〜前5世紀ごろ)に伝わりました
・はじめは北九州に定着し、そこから東北北部まで広まるのに数百年〜1,000年以上かかりました(AMS法による紀元前10世紀説を起点にすると約800年〜1,000年超)

返信する

015 2026/06/13(土) 11:53:17 ID:JMdLGNUVYA
縄文人は大和王権が出来た時には蝦夷と呼ばれて蛮族扱いで差別されてたよ

返信する

016 2026/06/15(月) 02:44:19 ID:9bWUKQNE7k
>>15
日本人に特有でかつ最多の遺伝子(Y染色体)D1aは、縄文人由来のもので中韓には見られないらしい。
オレのも調べてもらったらD1aだったよ。先祖が蝦夷だったのかなwww
あなたも調べてもらったら? 面白いと思う。

返信する

017 2026/06/15(月) 02:51:01 ID:9bWUKQNE7k
遺伝子を調べるのは簡単
https://reprocell.co.jp/well-mill/bioage/?gad_source=1...

ガンになりやすいかどうかとか、なんかの病気になりやすいとか分かって面白いよ

返信する

018 2026/06/15(月) 09:38:41 ID:loCcyNQSuk
ここオモロイで。


倭人の正体 総集編
https://www.ank-therapy.net/etcetera/%e5%80%ad%e4%ba%ba%e3...

返信する

019 2026/06/15(月) 11:19:32 ID:cH56A1IRMI
倭人の正体 総集編が長いので簡単にまとめてもらいたい
要点は、以下の3つにまとめられます。
倭人は日本人ではない:倭人とは「昔の日本人」ではなく、中国沿岸・朝鮮半島・日本列島にまたがって活動していた巨大な海上勢力である。
中国の歴史を動かしていた:中国の王朝(魏など)の誕生や、始皇帝の時代の戦乱に倭人が深く関わっていた。
教科書は間違っている:現在の国境で区切られた歴史観(常識)を疑い、大陸からダイナミックに人が移動した歴史を見るべきである。
つまり、「倭人は日本列島に閉じこもっていたわけではなく、古代のアジア全域を舞台に活躍していた中心勢力だった」という独自の歴史仮説です。

これらの説についての学術的評価は?
この説は、歴史学や考古学の「主流な学説(通説)」としては認められておらず、「大胆な独自の歴史仮説(いわゆる俗説・奇説)」として評価されます。
「海上勢力」という視点:一部に通じる部分もある
「倭人が中国の王朝を作った」:根拠のない飛躍
「倭人は日本人ではない」:言葉の定義の誤解
評価
 査読(専門家による検証)を経ていない、個人のエッセイです。
 理由:著者の藤井氏は歴史学者ではなくバイオ企業の元経営者です。このコラムは、歴史学的な手続き(史料批判や発掘調査データの検証)に則って書かれたものではありません。
    「既存の常識を疑うことでビジネスに必要な思考力を養う」という目的で書かれた思想読み物であり、歴史の教科書を書き換えるような学術的価値(学説としての評価)はありません。
「事実(教養)として学ぶ」のではなく、「フィクションの物語として楽しむ」のであれば、読む価値は十分にあります。 漫画の『キングダム』を読んで楽しむのと同じ感覚です。

返信する

020 2026/06/15(月) 13:10:31 ID:mCrlOb0/jo
ヤマト王権の頃に縄文人を差別して奴隷にしたから次の平安時代に貴族階級が生まれたのがわからんのかな

返信する

021 2026/06/15(月) 14:32:32 ID:xBf5Qq7dLU
縄文人は部民、部曲、俘囚、被差別民のルーツであり、体制外で生き延びたのがアイヌとサンカだよね。アイヌは、地理的防禦で守られ、サンカは漂泊スタイルで逃げ延びた。他には修験者や木地師、傀儡子、遊芸者、マタギなどの中間的つかず離れず層がいた。
日ノ本は。東の意味でしかなく、ゴールポストずらしよろしく青森では止まらず北海道蝦夷地に日ノ本は充てられた。

返信する

022 2026/06/15(月) 15:05:36 ID:54ImehEU0c
>>18>と >19 はかなりとんでも歴史観だと思う
現在の考古学の研究結果では「弥生vs縄文」という対立はなかったのが定説

遺跡の人骨などを調べたら縄文顔と弥生顔が混じっているとか

それに日本は津軽ではなく古代の日高見国なのでは?

また倭→日本の経緯は日本書紀に載っているのではなく、遣唐使に話しを聞いた中国人が経緯を書き残している

返信する

023 2026/06/15(月) 15:19:21 ID:FubsCEIRB2
中国の「旧唐書」と「新唐書」に日本になった経緯があれこれ書いてある。
中国人の問いに倭人が「倭って悪い漢字だからオレたち日本て名乗ることにしたんだ」という意味の返答をした。

>>18 に述べられるように「日本」が唐突に出現したのではなく、大宝律令の頃に外交文書などで日本が使われていたはず

返信する

024 2026/06/15(月) 15:23:24 ID:2KZwmTDCkY
米の起源は韓国とか言い出さなきゃ良いけどな。

返信する

025 2026/06/15(月) 16:05:18 ID:xBf5Qq7dLU
白村江の戦いで敗北した国とは違うんですと、戦時賠償逃れのために国家偽装をしたんだよ。中国人を騙すには易姓革命的な王朝交代が起きたストーリーが説得力を持ったからね。粟田真人が702年に則天武后に対して表明し、その任を果たしたことは日唐両方の史料に記されている。

返信する

026 2026/06/15(月) 16:14:11 ID:xBf5Qq7dLU
天智朝で3回遣唐使は派遣されてはいる(665年、667年、669年)。だが、中国人送還ついで(劉徳高送使、司馬法聡を百済の熊津都督府に送還、入唐せずなど)みたいな実りの乏しい型どおりなもので、腰が引けている。もっと言えば、敗戦処理の惨めな賠償履行のための遣使と考えるべきだろう。屈辱的ないやいやながらの強制的なものだ。天智天皇が没するまでは度々監視団が駐留し、筑紫は都督府が設置され続けた。まさに占領下にあったのだ。以後702年まで33年間パッタリと遣唐使は停止する。天智天皇薨去と壬申の乱を好機と偽装易姓革命を演出したわけだ。

返信する

027 2026/06/15(月) 16:32:31 ID:xBf5Qq7dLU
実は、天智朝の670年の遣新羅使で、国号「日本」は早くも外交デビューしている。668年には新羅からの使者が乗り込んできて賠償請求的な動きもあった。白村江の戦いの戦後処理の最中は、天智天皇が継投したので、国号変更は出来なかったというのなら、新羅に対しても出来なかったはずなのだ。新羅も文武王が白村江の戦いから引き続き君臨していたのだから。
唐は旧百済地域に居座り、熊津都督府を設置したのみか、新羅にも鶏林州都督府を設けている。668年に高句麗を滅ぼして安東都護府を設置、新羅も含めた半島全域を属州化しようとしてきたから、新羅の外交には変化が兆す。唐新羅離反を読み、分断の兆しに乗じて新羅の切り崩しを図り、再生日本の新たな国交を結ぶことを迫った。丁度現在、中国牽制のために日韓関係を重視するようなものである。
元々新羅などは敵に当たらずで通してきた倭は、新羅を舐めていたから、この時点では漢字表記だけ日本を飲ませ、やまとと読ませたのである。これがバレていなかったのを幸い、天武朝に至って本格的な国号改定と、その偽りの経緯を唐の史書にも刻ませることに成功した。

返信する

028 2026/06/15(月) 17:09:04 ID:AJPMzo3OIE
>>18 のリンク先では「白村江の戦い」の証拠が朝鮮にはないから、戦いなんかなかった・・・

と書いてるが、中国の旧唐書や新唐書に書いてあるのはもちろん
朝鮮の歴史書の三国志記にはっきり書いてあるぞ。

どんだけ怪しい歴史観なんだかw

返信する

029 2026/06/15(月) 17:14:37 ID:xBf5Qq7dLU
天智天皇が近江大津京で正式に即位したのは668年であるから、670年の唐新羅戦争開始に乗じて猫騙し的に国号日本を新羅だけにねじ込んだのは、お前ら戦勝国面もええかげんにせいよ、お前らには賠償義務は負わないからな、という虚勢であったかもしれないが、是非とも必要というものではなかった。これを推したのは百済遺民達で、百済官僚を大量に抱えた天智朝の反新羅感情の怨念は8世紀まであとを引き、頓挫はしたものの恵美押勝の新羅征討計画まで現れた。

返信する

030 2026/06/15(月) 17:15:45 ID:AJPMzo3OIE
それに「安曇野比羅夫」について調べたら、白村江の戦いに派遣され名誉の戦死となり神社に祭られているではないか。
日本国の征服に青森に向かったとか、、どこの世界線なんだよw

返信する

031 2026/06/15(月) 22:07:31 ID:n9K09CPbds
古代朝鮮のものとみられる土器には、「小林時計店」の刻印はなかったの(笑)?

返信する

032 2026/06/16(火) 04:31:57 ID:i8uQbEYa9A
二人の比羅夫は、当時のトレンドネームで、比羅夫はひらふ=神に拾われるの吉祥ネームであると同時に拓く、道を拓く者の意味を込めたもの。
百済にもおそらくは倭からの駐在武官であったであろう達率(だちそつ=高官の位)の比羅夫がいた。同じく達率であった九州出身の日羅(にちら)も、比羅夫であったに違いない。朝鮮半島や東国の守りの任を帯びた共通点がある役職名的なものだ。

返信する

033 2026/06/16(火) 05:13:12 ID:iqa4pVljNo
「稲作は中国北部から朝鮮半島を経由して渡来した」説は根拠のない創作。そんな戯れ言が日本の歴史教科書に載っていたとは。

もし、稲作が本当に朝鮮半島から伝わったのであるならば、朝鮮半島に日本よりも古い稲作の痕跡が見つかっていなければなりません。
しかし、日本に稲作が伝わった約3000年前よりも以前の痕跡は朝鮮半島では一切、見つかっていません。
「弥生の渡来人」なるものが日本に稲作を伝え、弥生時代の文明開化につながったなどという従来の説は、何の根拠もありません。

https://gendai.media/articles/-/96259?page=...

返信する

034 2026/06/16(火) 05:36:26 ID:i8uQbEYa9A
>>33
トンデモ宇山 卓栄を引き合いに出してはダメだよ。

返信する

035 2026/06/16(火) 05:40:35 ID:Dv68QJ4jX.
むしろ日本から半島に伝わったんだろう。南部は倭領

返信する

036 2026/06/16(火) 09:33:29 ID:i8uQbEYa9A
古代米遺伝子研究第一人者佐藤洋一郎論文が誤解の種を蒔いたのは、90年代から2000年代はじめの頃で既に散々批判されて本人も引っ込めたのに、未だに馬鹿な連中は初期DNA研究の誤伝に縋り、デマを吹聴して回っているから本当に後始末に困る。史学的教養に欠ける遺伝子研究者は研究データの解釈が歪んでいるので、ありえない説を唱えがちであるが、冷静に読みとけば普通に合理的な別解釈が成立することに気が付かない。

返信する

037 2026/06/16(火) 14:14:18 ID:xTXW6p2ZEI
水稲作伝来と日琉語族の歴史的シナリオ(言語学、考古学、遺伝学上の証拠から)
原郷(紀元前1500年〜)
 日琉語族の祖先(日琉祖語の話者)は、もともと朝鮮半島中南部で無文土器文化を担い、本格的な水田稲作を行っていました。
渡来と弥生時代の幕開け(紀元前10世紀頃〜)
 半島南部で水稲作を行っていた彼らの一部が、技術一式と「日琉祖語」を携えて九州北部へ渡来し、弥生時代が始まりました。
列島への拡散と統合
 渡来民は在来の縄文人と混血しながら「弥生人」を形成し、「水稲作の拡大」とセットで「日琉祖語(日本語のルーツ)」を列島全域へと広げました。
半島での消滅
 朝鮮半島に残った日琉語族の話者は、後に北方から南下してきた朝鮮語族の話者集団(高句麗・百済・新羅の祖先)に同化・駆逐され、半島側では消滅しました。

日本語と琉球諸語のルーツをひもとく 国立国語研究所 https://kotoba.ninjal.ac.jp/digest/13-1/d-13-02...
中国東北部の農民に遡る日本語:国際研究グループ https://mainichi.jp/english/articles/20211116/p2a/...
Northeast Asian Linguistic Ecology and the Advent of Rice Agriculture in Korea and Japan https://link.springer.com/article/10.1007/s12284-011-908...

返信する

038 2026/06/16(火) 14:29:43 ID:iv5RahXCoY
使ってる農具や開墾方法で稲作にもレベルがある
素人にはそういう知識がないから話が通じない

返信する

039 2026/06/16(火) 17:39:15 ID:iqa4pVljNo
稲作を教えてもらったのに植民地にして朝鮮を搾取した日本は謝罪と賠償を…

返信する

040 2026/06/17(水) 14:43:33 ID:UJ4Svl/OuI
稲作は降雨が無いと 陸稲でも雑草管理が大変だよ
そういった古代の気候はクリヤしてるの?
半島の柑橘類は北限が南端だし溜池みたいな灌漑の遺跡も殆ど無いんだけど
東南アジアは天然降雨が基本で人工の灌漑がショボいけど長粒米はやってたけどね

返信する

041 2026/06/17(水) 16:23:42 ID:N1bIIIYnZg
植物・花粉のデータ:地層から温帯樹木やイネの化石(プラントオパール)が見つかり、かつて中国東北地方が高温多湿だった証明となっている。
地球科学のデータ:湖の泥や鍾乳石の分析により、約4200年前を境に水生植物が激減し、砂漠の植物が急増したという「大乾燥・寒冷化」の動かぬ証拠がある。
遺跡のデータ:気候激変の時期と完全に一致して、北方の水稲作遺跡がパタリと消滅し、生存をかけて人々が南(朝鮮半島南部や日本)へ移動した足跡が発掘調査で裏付けられている。

返信する

042 2026/06/17(水) 17:47:16 ID:UbDpLoyjDI
満州にも水田は作られたんだから、温暖期には稲作は西遼河地方にまで北上したんだよ。
https://geo.d51498.com/ramopcommand/_geo_contents_/10...

返信する

043 2026/06/17(水) 20:03:58 ID:UJ4Svl/OuI
4200年前より昔じゃまだ塞外王朝が南下する前だね
新石器時代末で文字もあったんかね?
遼河文明のフィン・ウゴル系が居た頃だし

返信する

044 2026/06/17(水) 21:26:57 ID:UJ4Svl/OuI
>>42
日露戦争後じゃん
日本人が作った灌漑が無いとムリぽ

返信する

045 2026/06/18(木) 00:02:06 ID:EkChP59gew
>神戸女子大の斎藤瑞穂准教授(考古学)
テヨン耳やないかいw

返信する

046 2026/06/19(金) 00:10:42 ID:ryaGV22KwU
朝鮮は17世紀までインカ帝国と同じなんだよね

朝鮮中世経済史の某氏と話した時に、私が『ちょっと言いにくいんだけど、昔、日本では停滞史観だといって批判されたけど、どうも僕は、長い間やっていた感触として、李朝はインカ帝国に似ていないか』と聞いたんですよ。そうしたら、彼が『僕もそう思う』と言うんですね。…つまり、李朝というのは並みの中世ではないのです。例えば車がない。輪っかがないんです。なぜかというと、曲げ物をつくる技術がない。木を曲げることができないから樽もないわけですよ」「甕は重いでしょう。樽だと楽なんですが、それがないんですよ。だから升に入れて、車がないから、チゲといって全部背中に担ぐ。王朝の宮廷に地方でとれた蜂蜜を届けるんですけれども、そういう時は四角の升です。それを組み合わせて木釘で打ったものに蜂蜜を入れて、背中に担いで山越え谷越えするものですから、着いた時は半分ぐらいないという状況になる。…もっとすごいのは、李朝には商店がないんですよ。御用商人の商店が一カ所に集まっている。でも戸が閉まっている。要するに、宮中の御用をするだけなんですね。一般の民衆はどうかというと、みんな市場で買い物をします。北朝鮮と同じなんです。開いている商店というと、筆屋とか真鍮の食器屋ぐらいですね。両班のうちで使うから筆屋と食器屋はある。…帽子などは地面に広げて売っています。商店というものが全然ないんですね。これは儒教のせいではありません。初めからずっとないのです。

返信する


▲ページ最上部

ログサイズ:38 KB 有効レス数:46 削除レス数:0





ニュース速報掲示板に戻る 全部 次100 最新50

スレッドタイトル:「稲作伝来は長江流域から」は誤り? 弥生時代の遺跡に朝鮮の土器発見

レス投稿

未ログイン (ログイン

↑画像ファイル(jpg,gif,png)