【恐怖!南海トラフ大地震】それは伊賀上野から始まった…


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001 2025/01/22(水) 16:25:05 ID:oVjLrCSAKc
[死者1000人超とされる幕末の「伊賀上野地震」、当時の混乱生々しく…古文書が奈良の寺で見つかる]

幕末の1854年(嘉永7年)に三重県や奈良県周辺で多数の死者を出した「伊賀上野地震」の被害を記した古文書が奈良県山添村の観音寺で見つかり、奈良大(奈良市)が発表した。余震が続く様子や寺の被害状況が記され、調査に携わった研究者は「被災した当時の混乱が生々しく伝わる貴重な史料だ」と話す。(有留貴博)
伊賀上野地震の被害報告書を下書きしたとみられる書状。中央上部に「大地震」が見える(奈良大提供)

伊賀上野地震は、現在の三重県伊賀市付近を震源とするマグニチュードが推定7クラスとみられる大地震。三重、奈良、滋賀県を中心に周辺地域を含めて1000人を超える死者が出たとされる。奈良県内では約280人が亡くなり、約700~800棟の家屋が全壊したという。

書状は、山添村教育委員会と奈良大の村上紀夫教授(日本文化史)らの史学科研究チームが2015年から共同で調査。真言宗御室派の観音寺に保管されていた江戸時代から近代の古文書369通の中から、伊賀上野地震に関する記述を見つけた。

書状は総本山の仁和寺(京都市)に被害を報告する内容で、線で消している部分などがあることから下書きと考えられる。

本堂と庫裏の屋根瓦は残らず落ちた▽建具や柱の大半も裂けたり傾いたりした▽蔵や長屋といった周辺施設は、石垣が崩れて残らずがれきになった▽本尊だけはすぐに駆けつけ、運び出したため、損傷がなかったこと――などが記されている。

余震は発生から1週間ほど続き、2か月ほどたっても1日に7、8回揺れた様子が書かれている。そのため、「当惑して報告が遅れた」と弁解している。

発生したこの年はほかに、南海トラフを震源とする「安政東海地震」や「安政南海地震」も発生。災害史でも注目されている時期にあたる。

村上教授は「役人ではなく、実際の被災者が記した史料で、慌ただしさや被害の実情が見てとれる。地震が少ないと思われている奈良だが、地元の人の防災意識を高めるうえでも役立つはず」と期待する。

以下ソース
https://www.yomiuri.co.jp/national/20250122-OYT1T50058...

巨大地震/大地震が3年間に7連発!

●1854年
 7/9…伊賀上野地震(大地震)
 12/23…安政東海地震【巨大地震】
 12/24…安政南海地震【巨大地震】
 12/26…豊予海峡地震(大地震)
●翌1855年
 3/18…飛騨地震(大地震)
 11/11…安政江戸地震(大地震)
●翌々1856年 
 8/23…安政八戸沖地震【巨大地震】

ガチでヤベェよ南海トラフ地震

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002 2025/01/22(水) 17:37:10 ID:RislLJBXkQ
パンダは大丈夫だったのかな?

返信する

003 2025/01/22(水) 18:25:57 ID:CraHtC8UF2
004 2025/01/22(水) 22:19:59 ID:oVjLrCSAKc
同時並行

1853年7月8日(嘉永6年6月3日)- ペリー来航。浦賀沖。
1853年8月22日(嘉永6年7月18日)- プチャーチン来航。長崎。
1854年3月31日(嘉永7年3月3日)- 日米和親条約締結。
1854年5月2日(嘉永7年4月6日)- 京都大火。禁裏より出火、炎上。
1857年12月20日(安政4年11月5日)- 吉田松陰が松下村塾を引き継ぐ。
1858年7月29日(安政5年6月19日)- 日米修好通商条約締結。続いて蘭、露、英、仏と五カ国条約。
1858年10月11日-(安政5年9月5日-)- 安政の大獄が始まる。
1859年7月1日(安政6年6月2日)- 横浜港・函館港・長崎港開港。幕末の通貨問題。
1860年3月24日(安政7年3月3日)- 桜田門外の変。井伊直弼が暗殺される。

【江戸時代終了】
1867年11月9日(慶応3年10月14日)- 大政奉還。
1868年4月5日-(慶応4年3月13日-)- 勝・西郷会談。江戸開城。

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