●「宇宙は観測されることを望んでいる」
もちろん、物理学はあくまでも科学であって、宗教とは一線を引かねばならない。
しかし、物理学の発展は、もう“宇宙の原理”そのものに肉薄するところまで来ているのも事実である。
こういった状況を受けて、一九六一年にロバート・ディッキーが発表したのが「宇宙の人間原理」である。
彼は、この宇宙に生命が誕生したのはけっして偶然ではないと言う。
宇宙が誕生し、さまざまな物理定数が決定された時点で、生命が生み出される舞台はすでに作られていたのだと彼は発表した。
そしてその生命が、私たちのように知性を獲得することになるのも、同様に決められていたのだと述べている。
では、いったい何のためにヒトのような知的生命体が作られたのか。
「それは、宇宙が知性的存在を求めているからだ」とディッキーは言う。
私たちのような生命体が宇宙に望遠鏡を向け、宇宙の法則を解明しようとしなければ、
宇宙は誰にもその存在を認知されることなく、その一生を終えてしまうことになる。
「それでは、宇宙の存在意義はなくなってしまう」と彼は言うのである。
つまり、宇宙は自分の姿を見るための“鏡”として、人類を作ったというのである。
このようなディッキーの考え方は、たいへん人間に都合がよすぎる、
虫のいい発想に聞こえるかもしれない。
しかしその「人間原理」が、彼だけの単なる思いつきや奇説でなかったのは、
続々と「人間原理」の論文が出されたことからも明らかだ。
たとえば、イギリスのブランドン・カーターという学者は、
一九七四年にディッキーの考えをさらに拡張した論文を発表した。
二人の説を区別するために、ディッキーのほうを「弱い人間原理」、
カーターのほうを「強い人間原理」と呼んでいる。
ディッキーは、この宇宙が人間を生むために作られたとは言ったけれども、
それが偶然であるか、それとも必然であるかは言わなかった。
だが、カーターは「そもそも宇宙は、人間を生むためにデザインされていたのである」と、
その偶然性を否定した。
すでに述べたが、現在知られている物理定数以外の値で、この宇宙が作られていたとしたら、
それはもう宇宙とはとうてい呼べないものが出来上がってしまうことだろう。
電子や陽子だけが浮かぶ海のような“宇宙”は宇宙とは呼べず、したがって今のような宇宙が作られた以上、
それは必然的に生命を生み出さずにはおかれないのだ、というのがカーターの考えである。
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