
織田信長が武田信玄や上杉謙信に極めて姿勢を低くし、外交的に「頭を下げていた(下手に出続けていた)」戦略は、織田家の存亡を大きく左右する決定的な時間稼ぎと戦力の集中という最高の結果をもたらしました。
信長が「天下布武」を掲げて上洛した直後(1570年〜1573年頃)は、浅井・朝倉氏、本願寺、三好三人衆などの敵に囲まれた「信長包囲網」の中にありました。この局面で、東方の超強大国であった武田・上杉まで敵に回せば、織田家は瞬時に挟み撃ちとなり壊滅する危険性があったのです。
1. 背後の安全確保(戦線の「一正面化」)
信長は信玄に対して多大な進物(高価な進物や金品)を贈り、信玄の養女を長男・信忠の正室に迎えるなど徹底して懐柔しました。謙信に対しても「越後屋」扱いのように謙遜した手紙を送り、珍重な黄金や着物を贈り続けました。
これにより、最も危険な強敵であった両者を「中立」または「味方」に引き留めることに成功しました。結果として、信長は東方からの挟撃を回避し、近畿圏(浅井・朝倉や石山本願寺)との戦闘に全力(全軍)を注ぎ込むことができました。
2. 信玄・謙信の間合いを崩す「両天秤外交」
信長は信玄と謙信の双方向と同時に親交を結びました。武田と上杉は「川中島の戦い」に代表されるように長年の宿敵どうしです。
信長が両者と繋がっておくことで、どちらか一方と組んで自分を攻めてくるリスクを下げ、東国の緊張状態を維持させて信長自身への介入を遅らせるという計算が働いていました。
3. 「時間」という最大の資源の獲得
信長が他の戦国大名と決定的に異なっていたのは、経済力(堺などの商業都市の把握)と軍制(兵農分離による常備軍の形成)の成長速度です。
低姿勢で頭を下げて稼いだ「数年間」の間に、信長は以下の盤面を作り上げました。
・近畿の経済拠点を完全に押さえ、膨大な財力を蓄積
・大量の鉄砲(火縄銃)を買い集め、圧倒的な火力を整備
・近隣の敵(浅井・朝倉)を順次破り、領国を拡大
時間を稼げば稼ぐほど、信長の国力は「掛け算」で増大していきました。
■最終的な結末
1572年、危機感を募らせた武田信玄が「西上作戦」を開始し、三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍を完敗させましたが、信長が粘り強く耐え忍んでいる間に信玄が病死(1573年)します。
信玄の死によって包囲網の最大の楔が外れると、信長は一気に反撃へ転じました。獲得した圧倒的な火力と経済力をもって、1575年の「長篠の戦い」で武田騎馬軍団を壊滅させ、1578年に上杉謙信が急死した後は北陸方面へも一気に侵攻を進めました。
プライドを捨てて頭を下げ続けたことで「時間」と「生存権」を手に入れ、最終的に国力の差で旧時代の強豪を呑み込む——まさに信長の合理的かつリアリズムに溢れた戦略的勝利と言えます。
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