戦争反対・天皇やめろ 鎮魂の日も反靖国デモ バツ印の日の丸を掲げ


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001 2026/08/16(日) 11:58:20 ID:MLzsUofGw2
■「日本がどこで戦争しているのか」「国旗損壊じゃねえか」の罵声浴び

 終戦の日の15日、靖国神社(東京・九段北)周辺では今年も「8・15反『靖国』デモ」が行われた。参加者は「天皇の戦争責任を追及するぞ」などと声を上げ、
バツ印を付けた日本国旗を掲げて約2時間にわたって練り歩いた。
沿道ではデモの主張に反対する人々も次第に集まり、鎮魂の日に双方の声がぶつかった。

◆複数の中国メディアに囲まれ
 デモに先立ち、千代田区内の公園で開かれた集会では、靖国神社や皇室の制度に加え、13日に施行された日本国旗を傷つける行為に刑罰を科す「国旗損壊罪」法にも抗議の矛先が向けられた。
中国国営中央テレビなど複数の中国系テレビ局のロゴを付けたカメラマンらが、参加者にインタビューする姿がみられた。
一方、日本のメディアがインタビューしている様子などは、確認できなかった。


 参加者は、日本武道館で行われた政府主催の全国戦没者追悼式について「追悼式典反対」
「靖国は侵略戦争のシンボルだ」「侵略責任を追及するぞ」などとシュプレヒコールを上げながら、警察官に囲まれて休日の大通りを進んだ。

◆デモへの抗議者も増えていき…喧騒に
 沿道には、こうした主張に反発する人々も駆け付ける。

 右翼団体の名称が記された作業服姿の男性らから「日本が今どこで戦争やっているんだ」と声が飛ぶ。
バツ印を付けた日の丸を掲げる参加者を指し、警備中の警察官に「国旗損壊じゃねえか。早くぱくれよ(逮捕しろよ)」と訴える男性もいた。

 抗議の声が強まると、デモ側も「日の丸いらない、君が代いらない」と声を張り上げた。
沿道からは「お前らがいらねえ」と即座に反論。警察官が間に入って接近を防いだ。

 デモが終盤に差し掛かると、セーラー服姿で戦う少女向けアニメのキャラクターとみられるコスプレ姿の中年男性もデモ参加者に詰め寄り
、「こいつら毎年毎年、日本をけなすことばかりだ」と叫ぶ一幕も…

https://www.sankei.com/article/20260816-2GE36S4ST5A6X...

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033 2026/08/19(水) 13:02:01 ID:frYa4OsEi2
これは日本が戦争に加担してると言われても仕方ない

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034 2026/08/19(水) 14:14:10 ID:Ty/d/8FWCU
大日本帝国憲法における「立憲君主制」の仕組み
当時の日本(大日本帝国憲法下)における天皇の裁可は、現代の最高意思決定者の「独断」や「発案」とは性質が大きく異なっていました。

「輔弼(ほひつ)」と「君主は統治すれども統治せず」の原則
憲法上、天皇は大元帥であり最高権限を持っていましたが、同時に政府大臣(内閣)や軍の総長らの「輔弼(助言と責任)」に基づいて決定を行うことになっていました。

政府・軍部が決定した方針を拒否しない慣例
昭和天皇は「立憲君主」として、内閣や大本営(軍の最高機関)が閣議決定・御前会議で決定した事項に対して、個人的に不満や懸念があっても裁可を拒否しないことが慣例となっていました。天皇が拒否すれば憲法停止状態やクーデター(下剋上)の危機を招くためです。

したがって、実際の開戦決定や政策立案を行ったのは内閣総理大臣であった東条英機や、陸海軍のトップ(参謀総長・軍令部総長等)であり、天皇は「上がってきた決定を形式的に追認(裁可)した」という構造でした。

開戦までの経緯(東条英機の役割)
東条英機が特に強く批判される理由は、彼が「陸軍大臣」兼「内閣総理大臣」として開戦への動きを推進・主導した立場にあったからです。
1941年10月、東条内閣が発足した際、昭和天皇は「日米交渉のやり直し(白紙還元)」を指示しました。
しかし、東条ら陸軍主流派は対米妥協(中国からの撤兵など)を拒否し、「期限を限って交渉し、まとまらなければ開戦」という方針を御前会議で決定させました。
結果として、開戦の方針を固めて天皇の裁可を仰ぐようお膳立てをした責任が東条らに集中することになりました。

東条英機らの証言と覚悟
東京裁判において、東条英機をはじめとする被告(軍人・政治家)たちは、「戦争の責任はすべて自分たち(臣下)にある」「天皇陛下は内閣や軍部の決定を追認されたに過ぎない」という立場を一貫してとりました(東条は一度「天皇の意に反したことはない」と発言して騒然となりましたが、後に「天皇に責任はない」と訂正・弁明しました)。



>「深い反省の上に立って」

政党政治と立憲制を壊し、統制経済(国家社会主義)へ走った革新派(東條英機ら)に心理的圧力をかけられ開戦を「事後承諾」させられた・シタことに対しての反省だろ?  それ以外なにがあるワケ?

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035 2026/08/19(水) 15:54:11 ID:yBPap2iaJo
中国人やりたい放題やな。

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036 2026/08/19(水) 19:29:14 ID:4wGLavqOK.
>>33
なら最後までやり切ろう。中国人絶滅の日まで。

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037 2026/08/19(水) 23:54:54 ID:Ty/d/8FWCU
永田鉄山を中心とし、後に東條英機らに受け継がれた統制派の目指した体制

① 「高度国防国家」の建設
第一次世界大戦を経て「近代戦は全国家資源(兵力・経済・技術・国民精神)を動員する総力戦である」と認識した将校たちが、日本を総力戦に耐えうる「高度国防国家」へ作り替えることを最優先に掲げました。

② 軍部主導の計画経済・官僚統制(国家主義的アプローチ)
資本主義の市場原理や自由放任を否定し、国家(官僚・軍部)が産業や物資流通を強力にコントロールする「統制経済」を重視しました。ただし、これはマルクス主義的な共産主義や北一輝的な個人主導の革命ではなく、軍事目的を第一とした官僚主義的な計画経済でした。

③ 既存機構(政党・官僚・財閥)の利用と再編
皇道派のように財閥や政党を「悪」として一掃しようとするのではなく、それらを軍部の統制下に組み込み、利用・協力させる現実主義的な政策をとりました(後に革新官僚と連携し、国家総動員法などを制定)。

「国家社会主義者」だったのか?
純粋な思想的イデオロギーとしての「国家社会主義(ナチズム等)」とは異なりますが、実質的な政策手法としては極めて親和性が高かったと言えます。

思想の源流:統制派の根底にあるのは政治思想ではなく、「純軍事的な国家総動員思想」です。

実像:自由主義・資本主義・政党政治を排し、国家が経済と社会を一元管理・指導する点においては「国家社会主義的」な色彩を濃く帯びていました。そのため、社会主義から転向した学者や革新官僚(後の岸信介など)と手を組み、新体制運動や大政翼賛会、国家総動員体制の構築へと進んでいくことになります。

まとめ
統制派は、北一輝・大川周明のような「民間右翼の革命思想」を嫌悪しつつも、その国家統制のアイデア(計画経済や資本規制)は軍事的合理性の観点から部分的に取り入れ、「軍中央が主導する合法的な官僚主義的統制国家」を確立させようとした政治志向を持ち合わせていました。

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038 2026/08/20(木) 08:32:35 ID:K3pH6ohews
民族性なんかでクズなのはわかるけど
見た目が似た様な感じなんで 区別つかない。
アメリカみたいにネ~チブ、黒人、白人、スパニッシュ系みたいに分かれば
駆除しやすいけど

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039 2026/08/20(木) 16:30:20 ID:X8vwTRvTQ6
日本社会党(革新勢力・右派への変貌)
政党政治の時代(1930年代)に革新官僚の思想(統制経済や反既存資本家)に共鳴した社会大衆党などの「革新派(無産政党右派)」や、企画院事件などで弾圧・検挙された左派系官僚・経済学者たちは、戦後に結成された日本社会党の主力となりました。

社会大衆党系の合流
戦前に「国家社会主義」的アプローチで軍部や革新官僚と結びつき、新体制運動(大政翼賛会)を推進した社会大衆党の幹部(浅沼稲次郎、三輪寿壮など)は、戦後に日本社会党右派の結成の中心となりました。

統制経済と社会主義計画経済の親和性
革新官僚が導入した「国家による産業・物資の統制」という手法は、社会党が掲げた「社会主義的計画経済」や「基幹産業の国有化」の構想と論理的にきわめて親和性が高いものでした。

企画院系・革新官僚の転身
戦時に経済統制を計画した企画院の革新官僚やブレーン(勝間田清一、和田博雄など)は、戦後の社会党で政策通として活躍し、勝間田は後に社会党委員長に昇格しました。

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