鎌倉時代に起きた最初の元寇(げんこう)・文永の役(1274年)から750年となる今年、歴史の舞台となった自治体などが連携し、史実を伝える取り組みに力を入れている。
元寇は“神風”と呼ばれる暴風によって、国難が奇跡的に救われた印象が強いが、長崎県松浦市や壱岐市などには防戦で奮闘した武士の活躍や虐殺された住民の悲劇を伝える史跡が残っている。
企画展やイベントなどを開催し、埋もれた史実に光を当てようとしている。
沖合の海底で元寇船2隻が確認されている松浦市・鷹島。西側の海岸沿いの丘に、古い墓石がひっそりと立っていた。
刻字は判読できないが、傍らの新しい墓碑には「対馬小太郎の墓」と刻まれていた。
文永の役で活躍後、2度目の弘安の役(1281年)で元軍と戦った功績が記されていた。
島南部の山中には、「開田(ひらきだ)の七人塚」の石碑があった。文永の役の際、山に隠れていたが、鶏が鳴いたために元軍に気づかれ、殺された一家7人の悲話を伝えていた。
この地域では、今も鶏を飼わない風習があるという。
島内には、弘安の役で少弐(しょうに)景資(かげすけ)が構えた陣屋跡とされる「龍面(りゅうめん)庵」などの史跡もある。
「鷹島は海底遺跡が注目されていますが、地上にも元寇の史跡が数多くあります」。市教育委員会文化財課の安木由美・主事は説明した。
鷹島沖では弘安の役で、元寇船約4400隻が暴風に遭って壊滅したとされる。
同島沖の鷹島海底遺跡では元寇船のほか、「てつはう」とみられる球状の土製品や、元の国字「パスパ文字」が刻まれた青銅印など4000点以上が出土した。
松浦市は海底の発掘調査を進める一方、2022年から九州北部で防戦、防備に尽力した武士についても調査。
79人の出身地や領地などが12県47市町にわたることがわかり、「元寇所縁(ゆかり)のネットワーク」の設立を呼びかけた。
神奈川、千葉、福岡、佐賀、熊本、長崎、宮崎7県の24市町で、24年度初めにも発足する見通しだ。(中略)
同市は元寇関連の企画展を開催する予定で、市教委社会教育課の田中聡一課長補佐は「壱岐は激しい戦場となり、
多くの武士、島民が犠牲になった。こうした史実をしっかりと伝えたい」と話す。
松浦市の友田吉泰市長は「各地から駆けつけた武士が勇敢に防戦に努めたために、元軍が苦戦を強いられ、暴風雨に見舞われたともいえる。
史実を伝えながら、地域の活性化にもつなげたい」と話している。
◆元寇=日本の鎌倉時代中期の1274年・1281年に、モンゴル帝国(元朝)および属国の高麗によって2度にわたり行われた対日本侵攻である。
蒙古襲来とも呼ばれるが兵士の大半は高麗(現韓国)兵であった。1度目を文永の役、2度目を弘安の役という。
神風の奇跡により高麗兵は撃退されたと伝わるが、実際は鎌倉武士の奮闘が大きかった。
しかし鎌倉幕府は武士への恩賞に窮し、北条政権の衰退の一因となった。
https://www.yomiuri.co.jp/national/20240130-OYT1T50033...
返信する