アゼルバイジャンを脱出したサムベル・アラベルジャンさん(45)にとって、これは人生2度目の逃避行だ。
同国の首都バクーでアルメニア人家庭に生まれたサムベルさんは、まだ子どもだった1989年、生地を離れた。飛び地であるナゴルノカラバフを巡り、アゼルバイジャン人とアルメニア人の武力衝突が発生した年だ。
そして今回、そのナゴルノカラバフからも脱出することになった。アゼルバイジャンは前週、この地域で電撃的な軍事行動を起こし、アルメニア系住民12万人にとって30年続いた事実上の独立に終止符が打たれた。
住民の多くは現在、所持品をポリ袋に詰め込み、ナゴルノからアルメニアに向かう唯一の道路を埋め尽くす車やバスに乗り込み、恐怖に駆られて脱出している。
避難する人々にとって主要な通過地点となっている、アルメニア国境の町ゴリス。劇場の外で、サムベルさんは「悪夢だ」と語る。一緒に座っているのは妻のモニカさん、息子のハイクさん(21)、モニカさんの両親だ。
元警察官のサムベルさんは、ナゴルノのアルメニア軍基地で文民職員として働いていた。ナゴルノの中心都市ステパナケルトから真っ先に逃れたアルメニア系住民の1人だ。
だが幼少時のバクー脱出に比べ、今回の逃避行はさらに困難だ。
1989年、サムベルさんとその家族は、近隣の都市スムガイトでアルメニア系住民に対する虐殺が発生した後、バクーからアルメニアの首都エレバンへと逃れた。当時のバクーはソビエト連邦内の多国籍都市で、少数民族であるアルメニア系住民も数多く暮らしていた。
アゼルバイジャン人の隣人らは、サムベルさん一家を守って国境まで車で送ってくれた。「良い人たちだった」とサムベルさんは語る。後に残した家財道具も隣人らが送ってくれた。その後、サムベルさん一家はナゴルノへと移った。
<「また避難民に」>
だが今回、彼らは全てを失った。
ステパナケルトでは、アラベルジャン家は4部屋ある一軒家で暮らしており、家庭菜園まであった。アゼルバイジャン側が昨年12月に開始した9カ月間に及ぶ封鎖によりナゴルノカラバフは深刻な食料不足に陥ったが、それでも生き延びられたのはこの菜園のおかげだ。
「ステパナケルトに移り、結婚して家も建てたのに、今また避難民になってしまった」とサムベルさんは語る。
会計士である妻のモニカさんは、歩道に座り込み、「持ち出せたのはそれぞれのコートだけだ」と語る。脇には、ボランティアから渡された毛布を入れた袋が置かれている。
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